あの子が撮影した写真を眺めて
Apple IDのリセットが行えるようになった。 パスワードを変更して、自分のMacに接続して、写真と連絡先が見れるようになった。 でも最近の大半のやりとりは、GmailとかTwitterとかLINEだったんだろうなと思い、iPhoneも復元してみた。 メールやSNSも見れるようになったけれど、詳細を見るのは気力が足りないので後回しにしている。 とりあえずtwitterDMの既読通知機能だけは切った。 まだたまに話しかけてきている人もいる。 あの子は死んだんです、それを書くべきか迷っている。
カメラロールの最新の写真は浴室の写真だった。 おそらく死んだ場所の。 写真の端に紐状のものとチューハイが写っていた。
どんな気持ちで、なんのために撮影したんだろう。 SNSに上げようとしてやめたのかな。 誰かがiPhoneハックすることを予想してたのかな。 それともいつもみたいにライフログとして撮影してみただけなのかな。 ライフログの最後が死ぬ場所の撮影なんて正しすぎて笑ってしまう。
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去年の今頃は旧盆で集まった妹と花火をしていた。3年前は一緒にランチをしていた。 そんなことをgoogle photosが教えてくる。通知がなければ思い出さなかったかもしれないのだから、感謝すべきかもしれない。
彼女が好きなものを街中で見かける度に涙ぐんでいる。離れて暮らしていたから直近の彼女が好きだったものがアップデートされていないのは幸か不幸か。
彼女の痕跡を探して見つけたSNSアカウントの中で、唯一公開されていた彼女のtwitterアカウントには嫌いな事、もとい、自殺の理由しか書いていなかった。そのアカウントに紐づくメールアドレスはそのための捨てアカウントのようだった。 鍵アカウントもいくつか見つけたけれど、いずれも知ってるメールアドレスとも電話番号とも紐付いていなかった。パスワードなんてもちろん検討もつかない。死者にはソーシャルハッキングがしづらいという事にその時初めて気がついた。アナログな媒体に何か遺してれば、と思いつつもあまり期待出来ない。 Apple IDの連絡がくるまであと1週間くらいある。何か進展するだろうか。
初盆がおわって。
妹が亡くなって4ヶ月が経っている。 忘れた日は一度もない。ただ日々の経過が曖昧になっている。 苦手だった春は終わり、梅雨も明け、気がつけば夏が始まっている。 新暦の方のお盆も終わってしまった。
私の方はといえば、事件の起きた3月,4月は忙しかったのもあって割と飄々としていたのだけど、5月頃から精神がより不安定になっているように感じる。 自分を責める要素はたくさんある。責めてもどうにもならないことは分かっている。
お医者さんは「◯◯が合いそうですね」ということで先週から薬が1種類になっている。 リフレックスで間食しがちになっていたのが無くなったのは嬉しいけれど、また食欲が無い。夏バテの方もあるのだろうか。自分じゃ食べたいものがないので何も食べられない。
仄かな希死念慮はあるけれど、そんなのは思春期からずっとあるようなものなので無視している。おそらく「全部投げ出したい」「何もしたくない」の言い換えが「しにたい」になってるのだろうと思うようにしている。 それから追いつめられた時に自傷行為に走りたい気持ちが出てきている。これも正しくは泣く以外に哀しみとか怒りとか痛みを表現したいんだと思う。 泣く理由はたくさんあるし、社会的にも納得されるだろうけれど、キューが欲しくて自傷行為がしたいんだろう。 「泣いてもいいんだよ」の合図は痛みだけじゃない。高校生の私がそれに気づいていれば、違うキューを見つけられただろうか。
苦しさを因数分解していくだけの小賢しさが悔しい。 分解して分析したところで上手い対処が見つからない。 社会的に許される行動の範囲でごまかしごまかし試行錯誤していくしかないのだろうか。 「悲しみへの薬は時間しかない」とお医者様はおっしゃっていた。 悲しみに耐えられる時間を長くするか、速く哀しみを薄めるにはどうしたらいいんだろう。 キリが見えない戦いはつらい。 彼女が苦しみにケリをつけるために死を選んだように、私も死ぬまで戦い続けるしかないんだろうか。
次は旧暦のお盆だ。田舎の出身なのでそちらの準備もしないといけない。 お盆や法事は誰のためのものなんだろう。
帰宅
実家に戻ってしばらく待っていると、妹が帰ってきた。
家に帰った妹は唇が縫いとめられていた 噛み切るか、開きっぱなしになるかしていたのかもしれない 私が見たときは瞳は閉ざされていたが、開いていたから閉じたと母が言っていた。
私の知らない横顔。 でも死んだ妹と死ぬ前の妹は連続している。 いつ死んでも、死のうとしても、既遂しても不思議はなかった。 絶対に止めたいなら、強制的に入院させて監禁させるしかなかったと思う。
死んでからのことよりも、死ぬ前の元気だった姿を思い出したい。
好きなものを分けてくれた妹
私に付き合ってパフェを食べてくれた妹
高校生の頃、薬をすりつぶして吸っていた妹
一緒に読んだ桃寿さんのブログ
オーバードーズでろれつが回らなくなっていた妹
措置入院でベッドに縛り付けられていた妹
暇すぎて死にそうだからと呼び出してきた妹
化粧品を買うのに付き合ってくれた妹
友達がカフェを開くから相談されてると、大丈夫かな、と心配していた妹
花火をしたいとバーベキューをしたいと言った妹
きれいにネイルを塗る方法を教えてくれると言っていた妹
いたずらっぽく舌に空けたピアスを見せてくれた妹
パスタを作っていた妹
最後に楽しい思い出は思い出してくれただろうか。 引き止めるほどの力はなかったとしても。
生きてるだけで、死にたくなる。 なにか自分は構造が間違っているんだと思う。 それでも「死ぬのってめんどくさい」そう思えるから生きている。 死ぬためのコストが、生きようとするコストより低くなる瞬間。 生きるコストよりベネフィットが高くなるように、死んだときの損益が大きくなるように、毎日、未練を増やすように過ごしている。