木の芽時を恐れてる

2018年に一人っ子になりました。妹を亡くした自死遺族の日記です。

初盆がおわって。

妹が亡くなって4ヶ月が経っている。 忘れた日は一度もない。ただ日々の経過が曖昧になっている。 苦手だった春は終わり、梅雨も明け、気がつけば夏が始まっている。 新暦の方のお盆も終わってしまった。

私の方はといえば、事件の起きた3月,4月は忙しかったのもあって割と飄々としていたのだけど、5月頃から精神がより不安定になっているように感じる。 自分を責める要素はたくさんある。責めてもどうにもならないことは分かっている。

お医者さんは「◯◯が合いそうですね」ということで先週から薬が1種類になっている。 リフレックスで間食しがちになっていたのが無くなったのは嬉しいけれど、また食欲が無い。夏バテの方もあるのだろうか。自分じゃ食べたいものがないので何も食べられない。

仄かな希死念慮はあるけれど、そんなのは思春期からずっとあるようなものなので無視している。おそらく「全部投げ出したい」「何もしたくない」の言い換えが「しにたい」になってるのだろうと思うようにしている。 それから追いつめられた時に自傷行為に走りたい気持ちが出てきている。これも正しくは泣く以外に哀しみとか怒りとか痛みを表現したいんだと思う。 泣く理由はたくさんあるし、社会的にも納得されるだろうけれど、キューが欲しくて自傷行為がしたいんだろう。 「泣いてもいいんだよ」の合図は痛みだけじゃない。高校生の私がそれに気づいていれば、違うキューを見つけられただろうか。

苦しさを因数分解していくだけの小賢しさが悔しい。 分解して分析したところで上手い対処が見つからない。 社会的に許される行動の範囲でごまかしごまかし試行錯誤していくしかないのだろうか。 「悲しみへの薬は時間しかない」とお医者様はおっしゃっていた。 悲しみに耐えられる時間を長くするか、速く哀しみを薄めるにはどうしたらいいんだろう。 キリが見えない戦いはつらい。 彼女が苦しみにケリをつけるために死を選んだように、私も死ぬまで戦い続けるしかないんだろうか。

次は旧暦のお盆だ。田舎の出身なのでそちらの準備もしないといけない。 お盆や法事は誰のためのものなんだろう。